毎週2時間あって、前半はドイツリートやイタリア歌曲を歌い、後半はクラシックの歴史に沿って、各作曲家の楽曲を先生の解説を聞きながら聴く、というものだった。, なにぶん昼食後の時間に行われるものだから、とにかく眠く、後半の時間はいつもお昼寝タイムだった。, 古典派の解説のときに、当然モーツァルトが取り上げられるわけだが、その解説の中で小林は登場したのだった。, 「君たちは小林秀雄という評論家を知っているか。今の若い子たちは本を読まないからね。知らないかもしれない。だけど、彼の書いたモオツァルトはぜひ読むべきだ。」, 当時は血気盛んで、そういった知的挑発とでも呼ぶべきものを受けると、なにくそと思ったものだった。, 読み返している、というのは社会人なりたてのころ、ある先生が主催する読書会で丹念に読んだことがあるからだ。, 楽譜を丹念に分析したり、音楽史の流れに基づいてモーツァルトの楽曲を説明したり、といったことは何もない。, モーツァルトに関わるテーマが縦横無尽に語られ、モーツァルトを語りつつ、小林という人間が立ち上がってくる、小林のモオツァルトとはそういう文章だ。, 「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである」, 「トルストイは、ベエトオヴェンのクロイチェル・ソナタのブレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮を経験したと言う」と。, 自分は、そこまでの感情は湧き上がってこない。しかし、これらの曲が人の心に陶酔を生む、ということは分かる。, だから、自分はこれらの曲を聞いたときにかえって自制心が働き、感情の高ぶりを抑えているのだろう。, というよりも、誰かを傷付けてしまった、と反省と後悔の念に駆られる時、傷付けたときの自分は無意識だった、つまり自分を忘れていた、そんなふうに思い至る。, その意味では、自己陶酔を誘う音楽もかえって自分を振り返させる働きをしている、と言える。, モオツァルトを読んでいるとき、現在の自分にとって、自分を忘れさせる方向へ働きかける音楽は何かと考えた。, 木村弓の歌唱に寄せられるyoutubeのコメントを見ていても、他の人も同じように感じていることが伺われる。, 「母が葬式で流してほしいと言っている」「生死の淵をさまよい生還したあと、この曲の深みが分かるようになった」「この曲を聞けば、人は争いをやめ、世界に平和が訪れるだろう」, 本当にきれいになったのだろうか。そうしたものから解放されるのは良いことなのだろうか。, だが、単に悩みから目を逸らして安易な自己慰撫を行うだけにすませてしまう危険性が潜んでいる。, 木村さんがあのような歌唱に至るまで、どれだけの経験を重ねてきたことか、おこがましく自分が語る資格はない。, これは幾多の修行・苦行を重ねて、そうしたものをすべて捨て去って悟った仏陀の教えを聞いて、安易に納得するわけにいかないのと同様である。, 自分が興奮しているのは間違いない。それだけの魅力がこの楽曲にある。だが、それに身を任せるわけにはいかない。, では、ゲーテにとって、モーツァルトもまたベートーヴェンと同様の魔障だったのだろうか。, 小林は「彼(ゲーテのこと)の深奥にある或る苦がい思想が、モオツァルトという或る本質的な謎に共鳴する」と書く。, ゲーテにとって、モーツァルトは自分の根本に関わる音楽家であったが、ベートーヴェンはそうではなかった、ということだ。, だが、モオツァルトを読めば、小林が、モーツァルトとベートーヴェンを比較したときに、モーツァルトの方が優れた音楽家である、と断じていると読み取れる。, 自分がモオツァルトを読んだ、と言えるようになるためには、自分で論を展開できるようになっていなければならない。, 3行読書&やりたいことが見つかる読書会「読書の大学」 モーツァルト:弦楽五重奏曲全集. 小林秀雄の「モオツァルト」は本当に何度読んでも良い本だし、モーツァルトの名曲の数々は何度聴いても良い曲です。今日も聴いたし明日も聴こう! アマデウス弦楽四重奏団&ヴィオラ:セシル・アロノヴィッツ. 《本を読む➡自分を知る➡やりたいことが見つかる》 どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。, 一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである[26]。, 村松剛に「吉本は戦争中天皇主義者だったのに、今は最左翼のような顔をしている」と批判されたことがあると自ら述べる吉本隆明は、「戦争中もいい加減なことを書いていた連中」が「戦後も、すぐに「文化国家の建設」とか言い始める始末」と対比しながら、敗戦の放心状態にあって小林のこの発言の一貫性について膝を打ったという旨のことを第五次小林秀雄全集によせたインタビューで述べている。「事変に黙って処する」というのは小林の事変当初から強調した表現だった。また、吉本は小林の「マルクスの悟達」に至るまでの文章を挙げてマルクスを一番良く理解していたのは小林だったと評価している[27]。吉本は、戦前および敗戦時の小林については高く評価している。, この年の半ば、小林の実母である小林精子が5月に没し、6月『新日本文学』による「戦争責任者」指名、8月に戦時中からの明治大学の教授職の辞職[注釈 32]などが連続して起き、酩酊状態で水道橋の駅のホームから崖下に転落して奇跡的に軽傷で済むというようなことも起きている。小林はこの転落事件に強がりを見せながら触れているが、小林の娘の回想では帰宅時には生気の抜けたような青白い顔をしていたとのことである[28]。, この座談会「コメディ・リテレール」で、小林は文芸時評へのやや乱暴な決別宣言をしている。(「サント・ブウヴの発明した、あの文芸時評という溌剌たる形式、これも頂点に達してしまった批評形式ではないのかね。誰でもやれるようになった。例えば、匿名批評というような形式が盛大になれば、もう誰れがやってもいいのだ。第一流の批評家は必ず新しい形式を発明するだろう。まあ、そんな確かな自信が勿論あったわけではないが、何か新しい批評の形式というものを考えるようになった。そして、ジャーナリズムから身を引いてしまったのだ。」「コメディ・リテレール」より), この後、間もなく1947年(昭和22年)3月『展望』に書いた「ランボオの問題」(現行タイトル「ランボオⅢ」)で、小林は「マルクスの悟達」以後、殆ど触れることのなかったランボーについての論を新たに発表し、1948年(昭和23年)11月季刊『創元』2輯にドストエフスキーの『罪と罰』についての二つ目の作品論「『罪と罰』についてⅡ」を発表するが、全体として戦後の小林の文筆活動における近代文学評論のウェイトは低下して行くことになる。, ツアーリの秘密警察が跳梁する帝政ロシアにおいて、ドストエフスキーは人道主義的作品によって新進作家として華々しいデビューを飾った。間もなく社会主義サークル活動のかどで流刑の憂き目にあったドストエフスキーが、ペテルスブルクに帰還したのは1858年である。翌年、ダーウィンが「種の起源」を発表し、西洋キリスト教世界の伝統的世界観が合理主義の号令と共に激変を始める。日本では幕末に相当し、アメリカを先頭とする西洋列強と江戸幕府との間で通商条約の締結が行われている。この時期、ドストエフスキーは西欧へ視察良好へ出かけ、帰国後『地下室の手記』を皮切りに『カラマーゾフの兄弟』に至る一連の問題作の著作を開始する。『罪と罰』はその二作目に当たり、発表された1866年は日本では明治維新の2年前に当たる。, 『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは選良主義的超人思想にとりつかれたノイローゼ気味の青年である。ラスコーリニコフは運命の歯車に引きずられて哲学的殺人を起こし、自らの挑戦に敗北して自首し、流刑地に送られる。この作品の終わり際に、主人公が病にうなされて黙示録的な悪夢を見るという、一見するとストーリーとは直接関わりのない不思議な場面が唐突に挿し挟められている。「アジアの奥地」で発生した意志と知性を持つ魔性の微生物がヨーロッパに蔓延し、人類は傲慢と孤独の狂気に取り憑かれて世界は崩壊してしまうというのが悪夢の内容である。, 1948年(昭和23年)に発表された「『罪と罰』についてⅡ」で、小林は以下のような言葉を残している。, 『罪と罰』で主人公はキリスト教的に救済されるが、この悪夢について作者ドストエフスキーはそれ以上、何の解説もせずに物語を終える。ドストエフスキー作品では唯一終末論が取り扱われ、冒頭で日本人の風習が話題になる次作『白痴』が発表されたのは、日本では明治維新の年に当たる1868年である。, 1948年(昭和23年)11月の「『罪と罰』についてⅡ」発表と前後して、小林は1947年(昭和22年)3月にたまたま訪れた上野の東京都美術館における読売新聞社主催の泰西名画展覧会で出会った「カラスのいる麦畑」を前にして「ゴッホの巨大な目玉」に見据えられているような衝撃を受ける[29]。以後、『文体』3号 1948年(昭和23年)12月、4号 1949年(昭和24年)7月の「ゴッホの手紙」掲載を皮切りに、しばらくの期間をゴッホを中心としたフランス印象派絵画に関心を振り向けることになる。, 『ゴッホの手紙』はゴッホの書簡からの引用を多用しながら、戦後の小林の孤独と苛立ちのにじむものとなっている。, 小林は後に1963年(昭和38年)にみすず書房から出版された「ゴッホ書簡集」の監修もつとめ、この書簡集は小林没後に始まった80年代バブル期の絵画「ひまわり」購入騒動の頃に新訳に置き換えられるまで日本人のゴッホ信仰のバイブルでもあった。岩波文庫にも1955年(昭和30年)よりゴッホ書簡集は収録されていたが、書簡引用の多い小林の『ゴッホの手紙』はそれらの先駆的な意味があると言える[注釈 33]。, 恋愛だつて同じ事ではないか。ルナンの『アンティ・キリスト』は出来るだけ早く読みたい。, 知的障害を持つ画家山下清が話題になった時期には、彼の画の感性については評価しつつも、精神性の欠如を指摘して退けている[30]。これは山下が放浪を始める以前のことである。小林の態度を「大人げない」と取るか、「知的障害者の作なのであるから」という態度を是とするかは意見が分かれるであろう。, この時期の小林の文章には、ゴッホなどの絵画論と並行して日本の古典、小林特有の音楽的関心からのニーチェ論などがある一方で[31]、緊張感の抜けた随筆も現れる。またジークムント・フロイトについての言及が増えるのも戦後の時流の影響と無縁ではないであろう。, また、当時の最先端の娯楽であった映画(活動写真)についての少なからぬ数の論考もこの時期に残している。戦後には、1951年(昭和26年)5月の黒澤明のドストエフスキー映画『白痴』公開後、『中央公論』1952年(昭和27年)5月号から1953年(昭和28年)1月号に「『白痴』についてⅡ」を著し、後に対談も行っている。また小林周辺から、戦後の小津安二郎作品に関わった文学者が出ている。, 小林は1952年(昭和27年)12月から翌年7月までヨーロッパへ旅行する途中、ギリシャ・エジプトなどの古代遺跡を巡り、紀行文を遺している。この時期以後、小林はプラトンの著作への関心を深める。但し、小林のプラトンへの関心はむしろソクラテスに対する関心であり、これを元にソクラテスのダイモニオンを論じた「悪魔的なもの」を書き[注釈 35][注釈 36]、60年安保を前後する時期の『考えるヒント』に繋がる[32]。, 1859年にダーウィンが『種の起源』を公表した当時、イギリス(大英帝国)ではダーウィンに先んじジャーナリストのロバート・チェンバースが匿名[注釈 37]で出版した、万物進化論[注釈 38]を主張する『創造の自然史の痕跡』が話題となっていた。これについてダーウィンは「下等」、「高等」という概念を人間の主観的価値観の産物であって科学的な概念とは言えないとして、その科学的価値には否定的な評価を下している。一方で、その影響が自らの学説の普及するために一役買ったことについては一定の評価を下している。このような、「下等」な生物が「高等」な生物に変化するという形式の「進化論」は、ダーウィンの指摘するとおり近代科学の水準に至っていない疑似科学であるが故に、ダーウィン以前から存在していたが充分な影響力を持つには至らなかった。ダーウィン自身、当初は自らの自然選択説を疑似科学の代名詞たる「進化論」の範疇に入れることを拒否していた。疑似科学としての「進化論」の本質はその説が生命の謎、或いはその究極的な目的を説明することであり、これは本質的に科学的な証明の不可能な形而上学である。一方、ダーウィンの学説はそれが近代科学の枠組みにある限り「生命とは何か」という哲学的な問いには無関心であり、「種の起源」という名の通りに生命の多様な「種」がいかにして発生したかについての理論であり、「生命はいかにして誕生したか」という問いには無力である。それが社会のダーウィン学説に対するイメージからいかに隔たっていようとも、これは動かしがたい真理である。ダーウィンの有力な協力者であり、現代では疑似科学的な進化論者の見本と見られているトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然選択説を教えられた当時の感想を「何でこんな簡単なことに気づかなかったんだ」というものだったと言っている。これは、ハクスリーの思索態度が哲学的であって、科学的でなかったことによるものであろう。「ラマルク主義」で有名な、19世紀初頭のジャン=バティスト・ラマルクによる『動物哲学』以来、近代科学の水準を満たさない進化論学説のバリエーションは豊富であり、それぞれの理論の特徴についての議論はあるが、その内にはダーウィンの祖父エラズマスや、ハクスリーと共にダーウィンの有力な協力者であったハーバート・スペンサー、また小林が論じたフランスの哲学者ベルクソンも入れられるであろう。ベルクソンは著作中、スペンサーへの敬意を隠していない。, 伝統的キリスト教会の神学では、世界は神が7日で創り、人間の祖先は塵(ちり)から創られたアダムと、アダムの肋骨から創られたエバであるとして来た。このような世界観を無批判に受け入れる限り、人間の存在する意味を我々が改めて問う必要はない。一方、ダーウィンの学説が主張するのは「人間の先祖がサルである」という事実だけであり、しかもこの事実だけで伝統的なキリスト教神学の権威を無効化するには充分である。しかしダーウィンの学説は神学ではなく、仮にキリスト教の神学を抛棄するならば、人間の存在する意味を改めて規定する新しい神学が必要になる。それが、疑似科学的進化論の意義であったと言える。ダーウィン学説についての科学的厳格さを伴った論争では、ハクスリーやスペンサーのような疑似科学的進化論からのダーウィン学説の擁護者は間もなく排除されることになった。しかし、教会の権威に代わる新たな神学を必要とする世俗社会では、ハクスリーやスペンサーの権威が不要になることはなかった。かくて現代に至るまで、科学としてのダーウィン学説と疑似科学としての進化論の、社会における混同は多かれ少なかれ続いており、小林もまたこの混同から完全に逃れきっているとは言えない[注釈 39]。, 19世紀半ば以後、ダーウィン学説と共に西欧を中心とした自由主義的な世俗社会は、原罪論も最後の審判もない楽観主義の哲学を受け入れた。この楽観主義はしかし、20世紀初頭の第一次世界大戦の惨禍(さんか)によって打ち砕かれた。(参照:実存主義#不安の時代)第一次世界大戦後の西欧社会の知的潮流は、この言わば新しい神学の崩壊、乃至は解体から始まる。西洋哲学史におけるこの時代のランドマークとなる、ドイツの哲学者ハイデッガーの『存在と時間』、オーストリア出身の哲学者ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、いずれも楽観主義の哲学における形而上学の解体を主眼として展開されている。また、大戦以前から進化論哲学を主導して来たベルクソンのような哲学者自身、自ら路線変更を強いられた時代でもあった[注釈 40]。, ベルクソンの4冊の主著で、最後に発表された『道徳と宗教の二つの源泉』(1932年)を除いた他の3著は、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)以前の1889年から1907年にかけ公刊された。最終の「二源泉」刊行までの間が開いているのは、戦後のベルクソンが賢人会議に参加するなど、思索よりも大戦後の平和活動に熱心だったせいである。また3著がそれぞれ意識現象、生理現象、生物現象を扱った進化論哲学であるのに対し、最終の「二源泉」は、どちらかと言えば社会学的考察である[33]。進化論哲学者としてのベルクソン哲学の要となる部分は、小林が文筆活動を始めた第一次世界大戦前に刊行されていたのである。, ダーウィン学説の普及と共に盛んになった進化論哲学は、科学の発展を大前提とするが故に人間の理性を絶対視する「自然の光」、或いは主知主義の哲学であり、ベルクソンの哲学も例外ではない。ベルクソンをアリストテレスに象徴されるような伝統的な理性の哲学と区別するのは、その直観主義であると言われる。しかしベルクソンは、第一次世界大戦前の1903年(明治36年)に発表した『形而上学入門』で「知的直観」“intuition intellectuelle”と書いた箇所を、大戦後 ―― つまり思想背景としての進化論を抛棄した後と思われる時期に発表した論文集に転載するにあたり「心的直観」“intuition spirituelle”と書き直している[34]。この戦前のベルクソンの直観主義は、我々日本人が禅仏教で歴史的に親しんでいるような宗教的直観主義とは異なるベルクソン哲学の特徴的なものであろう。また、この知的直観主義と対をなしてベルクソン思想を特徴付けるものにイマージュ論がある。ベルクソンにとって、「イマージュ」とは単なる心的表象とは異なる、一種の観念実在論である。このベルクソンのイマージュ論の影響は、小林においてはそのドストエフスキー伝の序文をなす「歴史について」で見られるような、(ややグロテスクな)実在論的な歴史哲学となる。ベルクソンのイマージュ論は、彼が一時期会長を務めた英国心霊現象研究協会が研究対象にしたエクトプラズムを連想させるものがある。また、ベルクソンの宗教観もこれに倣ったものであり、後年、英国国教会が心霊主義を内偵して秘密提出し、暴露されたと言われる報告書における心霊主義の宗教観についての批判は、ベルクソンの宗教思想を非常に連想させる。, 1958年(昭和33年)5月には、いずれ未完に終わることになるベルクソン論『感想』の連載を『新潮』誌上に開始する。この連載の契機となったのは何よりこの時期の小林のギリシャ哲学への傾斜であろうが、当時内外論壇を賑わしたコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』[注釈 41]の神秘主義的進化論の影響も考えられる。同じころ、河上徹太郎が『日本のアウトサイダー』という評論を著した[35]。河上はアウトサイダーの定義を「異端」あるいは「幻(ヴィジョン)を見る人」として、中原中也、内村鑑三など数人の人物の思想と行動とを解析し、インサイダーすなわち正統主義、オーソドクシイのあり得べき形や個所の獲得のためのヒントを呈示した。小林は、この河上の一連の作業の保持する意味のうち、人物の「列伝」という歴史表現の側面にスポットライトを当てて[注釈 42]、『考えるヒント』で紹介している[36][注釈 43]。, また、現代では牧歌的に過ぎる態度と言わざるを得ないが、小林の『感想』冒頭における小林自身の超自然的体験談には、ベルクソンの俗流神秘主義の影響が認められるかも知れない。, 戦前のカントを論じた小林の初期文章では、カントの人倫重視の形而上学を「窮余の一策」と評したものがある。この小林の形而上学観はベルクソンを論じるにあたって自らの姿勢を暗に表明しているものと思われる。しかし、概してベルクソンの進化論哲学の体系は、小林がそれと信じた(信じたがった)程には精神的でも芸術的でもなく、小林の文筆活動において我々が論じる価値のあると見る分野に比較して素朴であり、楽天的に過ぎるのであって、そこから小林が期待するものを汲み上げるのは困難であったと言えるであろう。, ベルクソンは生命活動を砲弾の飛び交う戦争のようなイマージュによって提示する。事実、歴史はそのようになったのであって、戦後のベルクソンの平和活動にも関わらず、生物学的民族主義と進化論哲学を奉じるナチス・ドイツがユダヤ人哲学者ベルクソンの住むパリを占拠することになったのである。ベルクソンは遺稿の公開を禁じてナチス占領下のパリでひっそりと最期を迎え、ベルクソンの膨大な遺稿を期待しながら戦後を迎えた小林はそれを知り「恥ずかしかった」と告白している[注釈 44]。, 1963年(昭和38年)に、小林はソ連作家同盟の招きで訪ソしたのを期に、5年の歳月をかけたベルクソン論を中断した[注釈 45]。後に小林は数学者岡潔との対談で、中断の理由として「無学を乗りきることが出来なかったから」と述べている[37]。, 小林が封印したベルクソン論『感想』は本人の意志とは無関係に、生誕百年を記念した小林秀雄全集(第5次)・別巻として公刊された。, 1951年(昭和26年)、アメリカとの片面講和と旧日米安保条約によって一応の区切りの付いた戦後の日本には、戦後にニューヨークに本部を移して新体制として再建された国連への参加に対する、常任理事国ソ連の拒否権という障碍が存在した。1956年(昭和31年)の鳩山一郎内閣による戦後の日ソ国交回復は、このような状況下で行われた。日ソ共同宣言は、戦後の新日本再建に向けた国際社会への本格復帰の始まりとして、国内世論は歓迎ムードに沸いた。しかし、続く1960年(昭和35年)の新安保条約は、冷戦構造下でのアメリカに対する日本の一方的従属を決定づけるものであり、戦後日本の独立国としての将来への期待を全く裏切るものとして国内世論の激しい抵抗にもかかわらず強行的に締結された[注釈 46]。, 1960年(昭和35年)安保の前後に小林は、NHKラジオ新年放送に、吉田茂[38][注釈 47]や、南原繁、鈴木大拙、手塚富雄[39]と共に参加している[注釈 48]。, 戦前から創元社に顧問として関係してきた小林は、後戦間もない1948年(昭和23年)取締役となり、東京支社はのれん分けされ別法人となった。1951年(昭和26年)に現代社会科学叢書が刊行され、第一回配本のフロム『自由からの逃走』はベストセラーとなる[40]。1954年(昭和29年)に一度倒産「東京創元社」として再開したが、1961年(昭和36年)に再度倒産し、小林は取締役を辞任する。, この年小林は、「考えるヒント」として、評論「忠臣蔵I・II」を発表[41]。ここで結語の中で、「……現代人には、現実世界は、自由な批判に屈し、現状維持にも革新にも応ずると言った姿に映ずる傾向があるが、当時の武士たちには、勿論、そんな心理傾向は無縁であって、彼等は、ただ退引きならぬ世の転変をそのまま受け納れて、これに黙して処した」と説き、自らを仮託しているように読めなくもない。「これは、原理的には簡明な事で、行動人から知識人への転向であった」と続いている。他方で、同時期の講演「現代の思想」では、本題をそれて「世捨て」を論じており、その声の調子は重く沈み切っている。小林の「世捨て」についての見方は、中国古典を引き合いに出した「世を捨てて市場にいる」というものである。これは、かつて「西行」において取り上げ、重視しながらも「馬鹿正直な拙い歌」と評した作に似ている[42]。, 1963年(昭和38年)の訪ソで、小林はドストエフスキーの墓を訪れるなどし、ソ連・ロシアについての幾つかの文章を残している。「ネヴァ河」では、前年に没した正宗白鳥の、『罪と罰』の最後に登場するネヴァ河を遠い目に見る姿を回想として引いている[43]。この訪ソで『感想』を中断してしばらくすると、小林は『本居宣長』の連載を始める。小林には戦時中から日本の古典文学、芸能、絵画、骨董についての文章は数多いが、日本の古典についてのまとまった仕事はこれが最初で最後のものとなる。, 吉本隆明は、戦後の小林については「僕が左傾化し、熱心とは言えない読者になった頃、小林秀雄は、「無常という事」の延長線上の、ある閉じられた領域の中でくるくる巡回しているだけではないか、と思えてきたんですね。左翼から見ると尚更そうなのですが、いい文章を書いてはいるんだけれども、思想的な停滞を感じざるを得ない。」小林秀雄晩年の作品『本居宣長』についても「宣長論の勘所は、二つあると思います」、「記紀神話に書かれたことをそのまま素直に受け取ればいいという宣長の考え」「勘でいやに正確な古典日本語の読解をやっているなという国学者としての宣長」「その二点の考察が欠けているとともに、停滞感だけはいかんともしがたく、その論旨で書評を書きました」と述べている[44]。, 小林における通常の心理学を越える諸問題についての関心は、『モオツァルト』、『感想』、『本居宣長』に後続する、最晩年の未完となった『正宗白鳥の作について』(1981年(昭和56年) - 1983年(昭和58年))までに至る。ここで小林は、フロイトとユングの師弟の共同作業に言及し、ユングの『自伝』をめぐる逸話の中で、「心の現実に常にまつわる説明しがたい要素は謎や神秘のままにとどめ置くのが賢明・・・」とある文章を引用しかけた地点で、絶筆となった[注釈 49]。, 小林の批評は個性的な文体と詩的な表現を持ち、さまざまな分野の評論家、知識人に影響を与えた。小林がもたらした新時代の批評形式に対して、創造的批評、という評語が文学界に現れた[注釈 50][45][46][47]。文学の批評に留まらず、西洋絵画の評論も手がけ、ランボー、アラン、アンドレ・ジッド、サント・ブーヴ、ジャック・リヴィエール等の翻訳も行った[48]。酒癖は悪く、深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説が周囲で囁かれていた[49]。鎌倉市に在住[注釈 51]し、文化遺産や風致地区の保存運動にも影響力をもっていた。, 大戦のあいだ、ドイツ政府は六〇〇万人の非戦闘員を死の工場で殺した。これは最初は秘密にしておかれた。事実が漏れるとSPCDHは彼らのために一席弁じて、責任者たちを裁判にかけるのは不公正でありよくないことだと論ずる方針を打ち出した。それは死馬を鞭うつものだというわけである。

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